2013.6.6

研究という言葉

テレビのラーメン特集なんかを見ていると、
「このスープは何種類もの素材を使って、何度も失敗を繰り返し、”研究”に”研究”を重ねてやっと探り当てた逸品です!」
なんてセリフを聞きます。

この場合、この「研究」という言葉の使い方に「ナヌっ?!」という敵意も含んだ感情は一切生まれません。

ただ、運動指導者が
「この運動(動作)は僕が長年の指導経験の中から研究して思いついたものです」
というのは確実に「ナヌっ?!!!」なのです。

何が違うのかというと、「科学」を背景にしうる業界にいる場合、そうやすやすと「研究」という言葉を使うと、実際に「研究」をしている本当の「研究者」に失礼にあたるし、ちょっと出だしだけを聞くと、ある一定の人口に属する聞き手(ここにおいては「本物の指導者」とさせていただきます)対しては誤解を生み得るからです。

スポーツに関するおおよその事項は科学です。
だからある一定のレベルで、データを取って、他の関連データと比べて、結論付けて、文章に起こして、他者(オーソリティー)に評価してもらう等のプロセスがあって初めて「研究」と言えるような気がします。だって、そこまでやったってそのオーソリティーたちに認められなければ、その研究に要した時間も苦労も水の泡になることだってあるんだから…

その過程も踏んでないのに、自分の指導経歴の中で培った「創意工夫」や「試行錯誤」を「研究」と呼ぶのは、やはり本物の「研究者」に失礼にあたるし、「研究」という言葉を上記のようにとらえる人材に対しては、混乱を招く結果になるので、単純に迷惑だし不愉快です。

また、運動指導者が「創意工夫」や「試行錯誤」をすること自体は、その職業に就く人材としては当然の作業なので、それをあたかも崇高な行為のように申し出てしまうのはどうかと思うんです。
(研究ってすごく崇高な行為ですから)

確かにレベルの低い環境の中にいて、少しレベルの高いようなことをやっている人がチヤホヤされる中で、どっかでその地位に溺れてしまって、結果「研究」などという言葉を使ってしまうのかもしれないし、その指導者自体がそこまで「科学的事実」を生み出した研究者たちへのリスペクトを持つ人でないどころか、その崇高な行為をしてくれた人材の存在自体を人生に取り入れたことすらない人材であるならば、結構簡単に「研究」っていう単語も使えてしまうのだろうけれど、それにしたって、その「研究」という単語は、受け取る側の人口を考慮して発されなければなりません。

もう一度言いますが、「創意工夫」や「試行錯誤」だけであるならば、それはスポーツ指導の中では「研究」とは呼べません。
あなたがやっていることは、単に「指導者として最低限の行為」です。

僕なんてアホすぎるんで、「研究者」になんてなれないし、なろうと決心するまでにあと何年要するかも分かりません。(その時点で僕は「研究者」になれる器ではないんです…)
でも現状においても「指導者」としては十分すぎるほど成り立っていられます。

S&Cスペシャリストとして、「本物の研究者」にはどれだけ感謝しても感謝しきれません。
「研究者」って本当にスゴいんですよ!!!!!

まぁ…
色々な意味で、僕のいる場所にいると多種多様にわたる”?!!!”を日常の中で体験することができます。
つまるところ、日本のスポーツ業界の偏差値が現状より数段向上することを切に願います。

以上。

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