2017.6.29
祭りから知るアスリート”的”メンタリティーの特殊性
The Home of GS Performanceのある東京深川永代二丁目南町会は、富岡八幡宮の氏子町会です。
富岡八幡宮の例大祭は「江戸三大祭り」にも数えられ、
「神輿深川
山車神田
ただっ広いが山王様」
と詠われているように、神輿祭り、そして沿道から神輿とその担ぎ手たちに容赦なく清め水がかけられることから「水かけ祭り」としても知られています。
そして今年の8月13日には、3年に1度のその例大祭が行われます。
我々氏子は、その祭りに向け様々な準備をしていくわけなのですが、やはりその準備の多くは13日の「神輿連合渡御」にかけられます。
といっても、その祭りの中で、私は神輿を”担ぐ”のではありません。私の役目は神輿を”抑える”のです。
上の写真で私は神輿の前で2本の棒を抑えています。
朝の5時の集合から始まる富岡八幡宮例大祭は、8時過ぎに宮の前を通って連合渡御へ出発し、8㎞の道程を経て町会に帰ってきて最終的に神輿を収めるのが午後4時頃。私はそれまでずっと上の写真のように神輿を抑え続けるのです。
私が抑えているこの2本の棒は「ハナ棒」と呼ばれます。その「ハナ」の当たる漢字はいくつか通説があり、まずは「ハナからそんなこと知ってたよ!」の「端」、そして顔についている「鼻」、そして「あの人の踊る姿には華がある」の「華」です。
基本的に一番前で出っ張っている棒なので、だからこその「端」と「鼻」なのですが、この棒を担ぐことを下町っ子は粋と感じ、意地を張って威勢よくかっこよく担ごうとする様から「華棒」とも呼ばれていると解釈しています。
そしてその「華棒」を町を代表して抑えるのですから、この役目、結構重要ですし誇り高いものなんです。
初めてその誇り高き御役を町会からいただいたのは、私が22歳の時。その理由は「図体がデカいから^^;」
それ以降ずっと祭りの度にこの御役をいただき、今度の祭りで7回目となります。
初めての時は無我夢中で何が何だかわからないうちに祭りが終わっていました。正直言うと、その後2回は同じように渡御中の記憶が定かではありません。
人は興奮状態の記憶を残しておいてくれないようなんです…
それでもチョコチョコと何かがうまくいかなかった悔しい思いというのは祭りの後に残り、「次の祭りでは…」とリベンジを図る気構えが沸々と出てきます。
結果現在のところ、祭りの度に身体能力は過去最強を果たしています。
特に3回目の前棒を抑える御役をいただいた28歳の時には、S&Cの勉学も本格的に始め、どういうことが「鍛える」ということかも徐々にわかってきたときだったので、過去最強の度合いはかなり高かったはずです。
その後も着実に様々な工夫を凝らして身体能力を上げ、3年前の前回の大祭の時は自身の体重も過去最高そして筋力も過去最高にし、重い重量を持つ”神輿”とその担ぎ手に「勝つ」ために、それこそ過去最高の準備ができた状態で臨みました。
またその時には、私が仙台大学で指導していた「引退した」野球部4年生グループ、そして仙台と東京の知り合いのS&C関係者の総勢15名で「チーム加賀」を結成し祭りに臨み、多くの実りを得ました。
そして今年は、自身過去最高の3桁の自体重と、これまた過去最高の絶対筋力、そして前回に引き続き確保した10名を超える「チーム加賀」が祭りに参加し、今年の祭りを盛り上げることになっています。私も、この体重と筋力がどのように神輿に作用するかが本当に楽しみです。
ただこの準備の仕方は、一般的ではないようです。
そして前置きがすごく長くなりましたが、これが今回の記事内容の本筋となります。
目的がある → 準備する → それでも悔しい思いをする → 以前に増して工夫を凝らし努力をする → 違う経験の中でまた悔しい思いをする → 次回は悔しい思いをしないようにより一層工夫を凝らし努力をする・・・
という身体的鍛錬を伴う作業を一般の方はとらないようです。
以前町会の仲間にもわかってほしくて、「本当に祭りを想って、次回の祭りでは悔しいを想いをしないように、という強い情熱があるならば、俺みたいに鍛えるはずだ!鍛えることもしないで人に頼ろうっていう気持ちを持っているうちは、心底祭りを思っていないんだ!」みたいなセリフを吐いたら、「ハヘッ?…」みたいな顔をされたことがあります。
今思えば当然のことで、アスリート的メンタリティーを持っていなければ、そこに「負けないように鍛えよう!」という発想すら存在しないのです。それが普通、つまり「一般的」なんです。
上に矢印とともに記したような気持の動きと行動は、アスリート特有なんですね。
アスリートとして活動している限り、どこまで行っても目の前に敵が現れ、その敵に勝利するために工夫をし練習をする。そのために肉体的苦痛にも幾度となく耐え、自身の身体能力を向上させ続け、次の試合に備え続ける。
「悔しい!!!!!」「絶対に次こそは今まで以上の勝利を収めたい!!!!!」という熱い気持ちを人間が持ったら、必然的に上に書いたような肉体的鍛錬を伴う行動に出るもんなんだ…と勘違いしていたのは、私がいつもアスリートに関わっているからなんです。
普通の人は、たとえ瞬間的に「悔しい!!!」「絶対次こそは!!!!」と思っても、自身の体を鍛えようという行動には出ないんです。せいぜいやって自宅で腕立てと腹筋をたまにやるくらいなんです。そしてそれでもちゃんと「俺はやることやった!」と言い切れてしまうんです。なぜなら本当の意味での「鍛える」とか「練習する」という経験をしたことがないし、当然その”経験”に日々の日常生活の中で触れることすらないからなんですね。そして何より、誰が好き好んで身体的苦痛を経験したいのか、って話なんです。「普通は」やらないのは当たり前だし、それどころか鍛えた体があまりにも彼らにとって”非現実的”なので、我々の体つきに明らかな難色を示し「こんな体にはなりたくない」的な苦言すら呈します…
我々からしてみれば「おめぇらみてぇな中途半端な根性しか持ってねぇ奴らにゃあハナからなれねぇよ、バァカ…」でしかないのですが^^;…「一般的」には鍛えてでかくなった体に価値は見出さないのです。
そのくらい「アスリート」と「一般の人」は違うんです。
つまりアスリートは本当に特別な人種なんです。
そして我々S&Cスペシャリストの存在はそんな特別な存在であるアスリートに寄り添い、それどころか偉そうに指導をし、つらい作業とそれらによる膨大な疲労を与え、しかも可能な限り終わり無く負荷を提供していく職業です。
だからこそです。
もし自分の人生に身体能力が大きく関わる大イベントやそれを大成功に収めようとする目的を持つことがあるならば、それに適した努力をしていかなければいけないし、そのくらいのメンタリティーを持っていなければ、指導者として本当にもったいないです。
我々S&C指導者が実際に選手たちが出るような大会に出ることは困難です。だからこそ、それら大会に比べるのはおこがましいだろうけれど、それでもそれにかろうじて値するようなイベントが人生にあるならば、そのイベントのために自分ができる限りの工夫をし鍛錬を積み重ね、準備をすることは大事な作業になります。
よく私の地元の後輩が「洋平君の後に棒抑える役目が来るのが怖い」と言ってきます。
私が渡御中にやっている仕事ができないのがわかっているからでしょう。
当たり前です。私は日常生活に目的に向け「身体的準備」を取り入れる「アスリート”的”メンタリティー」が根本にあるんです。
つまり祭りにかけるメンタリティーが「一般的」ではないのです。
だから私も彼らにそれを期待しません。少なからず、私がアスリートに向ける情熱で彼らに期待することはありません。
そのメンタリティーの差から、普通の人にそれを求めても、前述したとおり「ハヘっ?…」ってなるだけですから。
逆に言えば、もしアスリートに接する職業をしてるのならば、「一般的」ではいけないと思います。
目的や目標に向かって工夫をし解析し実践するための脳力、体力、精神力を(意地でも)保持し、へこたれずにやり続ける「アスリート”的”メンタリティー」を持ってこそ初めて、「体のプロ」、「S&Cスペシャリスト」なのだと信じています。
アスリートとは、そうやって一般の人の想像を絶する作業を日々行う人種なのです。
もしその作業を行っていないのならば叱られる、という特殊な環境に身を置いている人たちなんです。
その「叱る」という作業をする立場にあるならば、自身を鍛え、一定まで達したらより一層鍛え、その後また違う工夫をしてより一層鍛え・・・
という人生を持っていてしかるべきではないかと思っています。
数週間前に「指導者は鍛えているべきか否か」という目を疑うような論争がSNSで繰り広げられていました。多くの人が各自の意見を述べていましたが、私にしてみれば愚問でしかありません。「やらねぇならやめちまえ!」です。
もし自分が「一般的」だと感じるところがあるならば、これからで構わないので「アスリート”的”」メンタリティーを持つ傾向をつけることをお勧めします。