2021.4.9
アスリートの競技力向上策模索は指導者の役目
競技者はその競技に選手として懸命に取り組む立場なので、「勝つ」という目的のための策、つまりは競技練習やトレーニングに精通しているわけではないです。
競技に参加できることと、その競技力向上のために取るべき策に精通していることは、「似て非なり」だからです。
世間ではそのあたりの現実がねじ曲がって理解されているため、アスリート自身すら、競技練習やトレーニングに関する知識に精通していなければならないのではないか、という、ときに罪悪感も含む認識不足に悩まされることも少なくないはずです。そしてその認識不足は、いつの間にやら、特に自身が本当の指導者の立場になってしまった際に、完全なる誤解や偽造の専門知識として、他人の体に対して実践されてしまいます。
これを私は日ごろから大きな問題として認識し、私が悩んだところでどうしようもないという事実を知りつつも、時に頭を痛めています。
話をいったん米国NCAAのスポーツ文化に飛ばします。
NCAAでは、指導者がコーチとして大学から給料をもらい、その競技指導に全力で打ち込むことができる文化があります。それは裏を返すと、自身の競技指導力次第で職を失う可能性がある文化でもあります。
ただ、その環境がスポーツ先進国米国の競技指導者の中にピラミッド型の指導力レベル格差を生み出しました。
NCAAが主催する24のスポーツでは、毎年全国優勝を決めるトーナメントがあるだけでなく、シーズン中は毎週ごとに全国ランキングの変動も起こり、それが複数のメディアから発表されます。
大学の名前を売るためのスポーツ競技という潔くも確固たる認識を大学と選手そして観る側も持っている文化の中で、各大学スポーツチームの競技力の向上と衰退は、明瞭に米国全土に発せられるのです。
基本的には、特にマイナースポーツであればなおさら、強豪校にのみ優秀な人材が集まる構図が出来上がっています。ただ、だからと言って一点集中の構図ではなく、どんなマイナースポーツであっても、少なくとも4校程度は優勝を争う超強豪校があり、その数校でトップ高校生アスリートを取り合い、結果的にほぼ毎年優勝校は変わりつつ、その競技文化を作り上げていく構図になっています。
(ここ10年程度のアメリカンフットボール以外の)メジャースポーツであればなおさらその争いは厳しく、”強豪校”と目される大学が数十校存在するとはいえ、必ずしもそれら強豪校のみが優勝を分かち合うわけではなく、毎年様々な大学がシーズンの最後にNCAA優勝トロフィーを母校へ持ち帰るようになっています。だからこそ高校生たちも、どの大学を選ぶべきか、という大きな悩みが絶えないのです。
そして、どのスポーツであっても、各学校の競技色はそのチーム指導者に委ねられているといっても過言ではないです。だからこそ、優秀な高校生アスリートたちは、自分を輝く存在に成長させてくれそうな指導者がいる大学を選びます。
つまり優秀な指導者の存在は、入ってくる選手の質にもポジティブな影響を与えるということです。
勝てない指導者は学校に残ることはできません。多くの勝利数を大学に持ち帰ってきてくれる指導者であれば、クビになることなく大学に残り続け、もしくはより高レベルとされる大学チームにて指導職を獲得し、優秀であればあるほどその給料は高騰していきます。実際に、現在NCAA1部リーグ所属大学のアメリカンフットボールと男子バスケットボールの強豪校のヘッドコーチ(監督)の給料は、数億円のレベルにまで到達しているのです。
***ちなみに、米国の大学所属のS&Cコーチで最も大きなサラリーは8千万円を超えました***
強豪校というレベルには到達しないまでも、1部リーグアメリカンフットボールや男子バスケットボールチームのヘッドコーチであるならば、数千万円を受け取ることは当たり前の現状ですし、マイナースポーツであっても、優秀とされる指導者であるならば1千万円程度の給料またはそれ以上を受け取っています。
それが米国大学スポーツの現状であり、だからこそ、優秀な指導者が続々と誕生していくのです。そしてその恩恵を受けるのは、高い給料を受け取る当人たち以外で言えば、アスリートたちとそのスポーツ競技文化です。
指導者が優れていれば、その指導者から指導を受けるアスリートたちは着実に力をつけていきます。そしてそれが勝利に繋がります。結果、その競技に携わることを生業とするプロアスリートが生まれたり、その優れた指導者の指導に携わり自身も優れた指導者としての道を切り開く人材も増えます。つまりは、優れた指導力は様々な面でそのスポーツ文化を豊かにするのです。まさに好循環です。
この好循環に拍車をかける、日本では見ることができない大きな要因が、先にも記した「給料」です。
高い給料をもらえる文化があるからこそ、脳力の優れた人材がその分野に足を踏み入れるのです。
指導者たちは、ライバル校に勝つために徹底して工夫をします。そしてその積み重ねの中で、特に秀でた人材が特に秀でた成果を上げます。脳力も含め才能ある指導者たちが切磋琢磨をするからこそ、”突出した存在”がさまざまなタイミングで誕生するのです。
当然ながら頻繁にその現象は発生しません。5年や10年に1度なのかもしれません。しかしながら、米国のスポーツ界においては、必ずその現象が起こっています。
そして、その優れた人材が思いついたアイデアは、いずれ他の学校にも伝わります。するとまた違うレベルの競争が始まります。その中で、また違う優れたそして特殊なアイデアが生まれ、また違うレベルに達したチーム力を構造する大学が現れ、そしてそのアイデアがまた米国全土に広がり、・・・と全国的な競技力向上に繋がるポジティブな循環が出来上がります。
結果、NCAAのピラミッド式スポーツ指導文化の先端の高度は高まっていったのです。
*ここで再度念を押すようにピラミッド式と記す理由は、米国にも未だ低レベルな指導力で大学アスリートを指導する指導者も多数見受けられるからです。ただ、上の方を見上げると、ほとんどの日本の競技指導者の肉眼では到底確認できないほど高いレベルに存在する指導者がいることは確か、だと私は感じています。
アスリートは競技生活を全うする専門ではあるけれど、競技練習やトレーニングに深い理解と策を持つ専門家ではない、という内容に話を戻します。
端的に言えば、競技指導者が競技練習方法そして選手やチーム育成に精通しているべき存在で、我々S&Cスペシャリストが身体能力向上に精通しているべき存在なので、当然ながら、我々指導者が指導対象となるアスリートにそれら専門分野に関する知識や技術で後れを取ることはあってはならないことだし、選手が競技力や身体能力で伸び悩むことがある際には、指導者がピンポイントの解決策を提供できるべき存在であるのが理想的です。
つまりは、競技力向上に関する策を提供するのは指導者で、選手たちはあくまで受け身の立場にあるということです。
***選手たちが競技力向上に関する知識や技術を持つ立場にないということではありません***
そういった観点から言えば、アスリートたちが「努力」と謳い全うする行動内容は、指導者から生み出されるものです。だからこそ、その内容は、競技力向上のための知識と技術と経験を重ねに重ねて考察したうえでさらに研鑽して成り立ったものであるべきです。
ですので、アスリートが本来の意味で”自分自身で築く努力”は、その指導者から出される練習プログラムの内容とそれらを行う理由を可能な限り明確に理解し、そのプログラムの中で勝利に近づくために自分の長所を伸ばすためそして弱点を克服するための工夫をしつつ、懸命に自身のそしてチームの鍛錬に励むことであるはずです。
少なからず私は、理想はそこにあると思っています。
「努力は報われる」
それが苦く切なく悲しい感情を引き起こすことを、真剣にスポーツに取り組んだことのある人材であれば知っています。
でも、アスリートはそれを知りつつも、可能な限りは努力を辞めないのです。
いつか近いうちに自分に明るい光が向くことを信じ、懸命に”今日のプログラム”に取り組むのです。
その事実を、指導者の方々はどれだけ深く認識しているのでしょうか?
競技指導者たちの脳みその中では、競技練習や体力づくりに関する知識は、明確にアップデートされているのでしょうか?
S&C指導者と自称する人たちが最近は本当に増えてきました。彼らはS&Cというスポーツ科学をベースに成り立つ業界に居座れるレベルの知識と技術を持っているのでしょうか?
日本には、スポーツ指導者の指導力の質に合わせた給料高騰システムが存在していません。給料システムどころか、運動指導が無償で行われる現実も多々見受けられます。
だからこそ、高い能力を持つ人材が業界に入ってこない、もしくは離れていくという現実もあります。
そんな現実の中で切磋琢磨が起こったとしても、米国ほどの高レベルな能力の凌ぎ合いが起こるとも思えません。
そして、競技指導の質が自身の利益を与えない環境下で(不評という不利益は与えられる…)、スポーツ競技におけるポジティブな結果が出ない際、指導者たちは、多くの場面で「教育」や「精神鍛錬」という大盾を自身の目前に置き、勝敗の価値の度返しを試みる姿も何度か見たこともあります。そして実際に、(そしてこれは多くの場合指導者の無知からくる理由でだが…)競技力向上から遠ざかる”宗教的行動”を選手たちに強いる指導者も少なくない現実があるのではないでしょうか?
そんな中にあっても、選手たちは自分たちが行っているのは「努力」と信じていることでしょう。
私自身はS&C指導者なので、私の業界に対する不安や不満は多々あります。その中で最も大きな危惧は、日本で質の高いS&Cが実践される状況が少ないことです。
それこそ、切磋琢磨の規模が小さくその質は低いです。
「なぜ」を考えて多くの指導者が自身の指導を日々実践しているはずなのですが、その「なぜ」が浅いです。しかも、彼らは自分たちの持つ「なぜ」が浅いということを知らないのです。なぜなら、「なぜ」を問われたことがないからです。選手やクライアントに「なぜ」を説明することはあっても、その説明の質が低いことを知りません。なぜなら選手やクライアントに専門知識がないため、それっぽいけど拙い低質な説明でも納得した面持ちで頷いて聞いてくれるからです。
もとをただせば、専門学校や大学の指導者は、まともな「なぜ」を教えてくれているのでしょうか?
専門教育機関で学んだ上でS&C指導者を名乗る人材だけでこの業界が成り立っているのではない悲しい事実もありますが、そうなると、趣味の延長線上のような経験を経てすぐに自身を「S&Cコーチ」と位置付けた人材はどれだけ多くいて、彼らに指導されなければならない不運なアスリートは何人いるのでしょうか?
そんな人材が出した低質なプログラムや指導内容でさえ、選手にとっては「努力」の対象になるのです。
選手たちに質の高い「努力」を提供するのは指導者の役目です。
「ちゃんとやれ!」と叱咤する前に、その練習やトレーニングを、選手たちの目標に直線的な内容にできる指導力を持ちましょうよ。
ウェイトをしに来た選手たちに自分の用意したプログラムの1セット目を与える前に、選択した運動のフォームの各局面の裏にある理由を明確に把握しましょうよ。そしてそのセット数そしてレプ数が目標に向かって直線的であるかしっかり確認しましょうよ。
選手たちは盲目的に指導者を信じている、そう思って、そんな選手たちの信頼に確実に応えられる人材になりましょうよ。
選手たちに「考える重要性」を説くのはそれからで十分ですよ。まずは自分が提供する指導内容の研鑽をしましょうよ。
そこで初めて選手達の努力との相互効果が生まれるんだから。
選手たちは、自分が日々与えられるプログラムが、ライバルたちに勝るための策だと信じているんです。
そのプログラムの中で、自分の課題に取り組んでいるんです。
だからこそ、そのプログラムの質は「勝利に直線的」にしてあげてください。
少なからず、どんな人にどんな質問をされても、明確にそのプログラムの裏にある理由を説明できるような、高い指導力を身に着けてください。
先にも記した通り、その高い能力を身に着けたからといって、自身の就業待遇が向上することはないかもしれません。
それでも、選手たちの「努力」に立ち向かう姿勢を心から尊重し、彼らの勝利への熱い思いを反故にせず、彼らの体力と時間そして目標や夢を、無駄にしないであげてください。
それが日本の運動指導者です。
こういう文章を書いた時、多くのまともな神経をした指導者は「自戒を込めて」とか言うんでしょうけれど、私は言いません。
それだけの指導をしている、そしてそれが欠けることがないよう日々精進している自負がありますから。