2019.8.22

~スポーツは宗教じゃない~ 「俺が若いころは…」系のおじさんたちへ

9DAA07E2-F63A-4D51-90BC-8843BB717233私はお祭りが大好きです。特に地元の深川祭りは、私の人生の中核に位置している、と言っても過言ではないのかもしれません・・・

祭りのために私の人生のかなり大きな部分をかけ現在に至っているし、きっとこれからもその祭りのために私の人生の大きな決断をしていくのだと思います。

 

祭りをやっていると理不尽なことも多々起こるし、「なんでこんな環境に自分の身があるんだろうか?…」と疑問に思ってしまうこともあるのですが、”我に返ってはいけない”という、祭りに身を捧げる際の暗黙のしかしながら絶対的なルールがあるので、祭事関連の出来事に関して、明確な「理」を追求することは避けています。

 

「宗教だから仕方ない」、そうあきらめるに越したことはないのです。

そして宗教だからこそ、私はこの祭りに本気になって取り組むことができるのです。

 

 

その「宗教」と正反対のポイントに存在しているのは「科学」です。

 

科学とは、物事の性質や成り立ちに明確な説明をつけてくれるものです。

科学の実験で皆さんが経験した通り、その理の通りに再現しようと試みるとおおよその割合で再現することもできる、そういったものです。

その理に、祭り文化の中でよく見聞きする、「昔からそうだから…」とか、「あの爺さんがそういうんだからしょうがない…」とか、「そんなの粋じゃない…」とか、「そんなの祭りじゃない…」とか、そういった類の曖昧さは存在しません。

科学で”曖昧”な部分が残る場合は、その”曖昧”な結果が発生する理由についてもしっかりと言及され、改善に向けた今後の策もしっかりと説明される必要があるので、時間がたてばたつほど、物事はより明確になっていく傾向があるのも科学の特徴です。

 

 

ただ、科学と私が愛する江戸の祭り文化にはしっかりと共通点もあります。

「近代になり急速にその形が確固たるものに形成されてきた」、ということです。

 

江戸祭り文化は、ともすれば江戸時代から継承される事柄や決まり事を引き継いでいるような印象を与えますが、実は今我々が祭り文化として継承する事のほとんどは、江戸から残る文化ではなく、昭和時代になって発生した文化の名残であることが多いのです。

端的なものの考え方を言えば、今「おじさん」と呼ばれる方々のおじいさんたちの時代に築かれた決まり事や形式が、祭りを司るためのルールとなって色濃く今も残り、それを”江戸文化”とか”粋”とか”祭り”と認識していることがほとんどです。

その意外と若い文化の中で、「昔からそうだから…」とか、「あの爺さんがそういうんだからしょうがない…」とか、「そんなの粋じゃない…」とか、「そんなの祭りじゃない…」といったセリフが、多数決の何百倍も力強い”理屈”として存在しているんです… (だから祭りに関しては、”我に返って考える”はご法度なんです…)

でも、祭りはそれはそれでいいです。それで秩序が保たれている部分もあるし、実際に上で述べたような”力づくな”理屈が、実際に正義になり、みんながそれに納得するということもあるんです。

宗教だから。

 

祭りの話が若干間延びしてしまいましたが、近代文化の発達とともに確固たる成長を遂げてきたといえば、科学は宗教の比ではありません。

皆さんもご存知の通り、人々の寿命は延び、日常生活は便利になり、解明されない事柄がどんどん少なくなっていくのは科学のおかげです。

”曖昧さ”がご法度だからこその科学の進歩です。

 

しかしながら、昨今の高校野球問題を客観してしていると、物事をより合理的かつ的確にとらえるべき「スポーツ科学」を「祭り文化」と同様にとらえて能書きをブッこくおじさんたちの多いことに閉口してしまうことが多々あります…

 

「昔はこうだった…」

「○○をやらないから今の子供たちは弱い…」

「心の教育…」

「この瞬間にすべてを…」

「今やらないでいつやる…」

「走り込み…」

「百球超でも連投必須…」

「素振れ!投げ込め!…」

「根性…」

「気合…」

「あおり運転…」

「闇営業…」

(あれっ?)

様々な”曖昧さ”のオンパレード。

おじさんたちが昔やらされていたことに無理やり理屈をつけようと思ってもまったくもって理がつかないがために、自分の唯一の強みである「長く生きている」という一枚札を掲げて、どうにか科学と対抗しようとしている無様な姿の向こう側に「江戸」を感じずにはいられない…

 

 

スポーツも科学と同時進行で進化しています。

野球も含め、現存のメジャースポーツチームがタイムスリップして30年前の同レベルで競うチームと対戦したならば、どう考えても現在のチームのほうが格段に強いでしょう。

タイムを競う競技における現在と30年前の比較のほうがもっと明確ですね。

その現実に背を向け、昔話をされても、今ある現状に当てはまるはずはないのですが、そんなことにも気づかない理解力のなさ…

 

おじさんたちはやはり自身が積み重ねた年月に重きを置いてしまうのでしょう。人は過去の自分を美化してしまうものなのですから… もしかしたら、彼らは自分がやったことすらないトレーニングとされる内容を「昔話」の中に取り込み、それを話し続ける中で現実に起こったこととして記憶を組み替えてしまっているのかもしれません。実際はやっていないけれど、むしろやっていないからこそ、壊れることなく現役生活を全うできたのかもしれません…

事実は闇の中…

 

 

精神論に関しても、すごくいいサンプルが今朝のワイドショーであったようなので引用しますと、開星高校野球部元監督の野々村直通氏が、下記のような理屈をこねたそうです。

「自分の決めてた限界よりまだやれたという進歩した自分を発見する。」

「今はそこを優しくし過ぎてる。倒れさせるんじゃない。倒れる気でやれ、それだけ高校野球に没頭しなさいという事。この時期の教育に絶対必要。それをやらなくなって温室育ちになったから非常に弱い日本になった。」

 

まず「弱い日本になった」って、今日の日本はあなたの世代やあなたの育てた高校球児たちが作り上げた結果でしょう…

もう、おじぃさんったら…

 

まだまだ滅茶苦茶なことを言ってますよ、おじぃさん…

例えば、真夏の暑い中で長くきつい練習に耐えるから立派な大人になれるのでしょうか?

そんなに高校球児の将来を気にするのであるならば、可能な限り効率よく効果も高い練習プログラムを作成したうえで的確に指導もし、日々の練習だけでなく、夏休みといういつも以上に自分の時間を作りやすい時期に、それこそ彼らに勉強をする時間を提供し、野球以外の知識や技術を植え付ける機会を授けてあげればいいのです。

彼らの体力と時間をいたずらに奪い取るような過去の負の遺産を正義感たっぷりに肯定しつつ、現在の高校球児が作る将来の日本を憂いても、やはり説得力がないんですよ。

 

幼いころから真剣に取り組んだスポーツで一流というレベルまでよじ登り、高校はたまた大学まで懸命に競技生活に没頭した挙句、その競技生活以上の社会生活のレベルを獲得できないアスリートって多いのではないでしょうか?

それどころか、物覚えが悪い、一般常識を知らない、理解力がない、字が読めない、足し算できない、頭を使う課題に取り組むことができない元アスリートの子たちの割合って、受験勉強をして一般的にも名が知れた大学に入学した「スポーツ競技に高校生活を捧げなかった子たち」と比べたら、数倍じゃないでしょうか?

 

少なからず私は米国から帰国して、多くの学生運動選手を指導する立場になったときに、その2国間にあるその辺の差をまざまざと感じてしまいました。

米国で私が指導していた大学は、脳力としては平均レベル(もしくは中の上?)でした。それに比べ日本で職を得た大学の脳力レベルは(偏差値は)、国内の大学の中でもかなり下方に位置していたので、一概にその両大学間での経験を「アスリート」と「大学」という括りで縛ることはできないことも理解していますが、それにしても、日本での学生運動選手を指導した際のカルチャーショックは、私が米国で感じた諸々のカルチャーショックを大きく上回るレベルの高さでした。

「こんなにこの子達は物を知らず、しかも考える能力も理解力も低いのかぁ…」

と、悲しくなったほどです。

 

 

それは日本の”ダラダラ練習”の弊害の一つだと個人的には考えています。

長時間練習することは、直接的に学生の勉強する時間を奪い取るだけでなく、疲労回復する時間を奪い取り、授業中の居眠りや予習・復習欠如につながります。メリハリのないスケジュール自体が、選手たちのスケジュール管理能力の低下にもつながると思っています。(それなのに指導者はそのメリハリのなさを選手たちのせいにしちゃうのも見たことがある…)。そしてなにより、指導者や先輩に意見する事すら「禁止」される日本のスポーツ文化において「思考停止」が身を守るために存在してしまうのは当たり前なのでは… (それは宗教なんだよ…)

結果的に、学生運動選手たちは、一般的なレベルから比べると、学力だけでなく、社会人として必要な「考える能力」も劣ってしまうリスクに晒されているのだと考えています。

このような過程で競技生活を送り形成された人格と能力が、今度は競技指導者として選手たちの指導に当たるとすると、とんでもない悪循環しか生み出さないのではないでしょうか。そして現状を客観視してみるとあながち間違っていないのでは…

(留意) あくまで個人的経験からくる私的意見です。

 

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ダラダラ練習には、競技力に直結する弊害もあります。いつ終わるかわからない練習プログラムでは、選手は”本気”を出すことをためらうようになり、「全力で」という指導者の熱意は空振りに終わります。しかも、自分の持つ数割の力を出し続けると、その数割がその選手の実力となってしまいます。だからこそ、指導者は常に選手の「全力」を引き出すための質と量を考慮した練習プログラムを提供できるようにならなければなりません。選手たちに「倒れるくらいまでやれ!」と偉そうにほざくのは、最低限、そのレベルの練習プログラムを作れるようになってからです。

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科学と宗教は違います。

祭りに魅せられ、自身の人生の大きな部分を捧げている私が言うのですから信ぴょう性があるはずですが、「祭りに理屈なんかいらない」んです。

 

でも、スポーツ科学は違います。科学なのだから違います。

でも、その科学に宗教的な理由付けを持ち込み、しかも正論体で実践する輩たちの存在がある限り、その被害を受ける子供たちの体と心と脳は存在し続けます。

 

心身ともに困難に立ち向かう強さを育成する重要性、そのこと自体に何の反論もありません。

スポーツを通してその鍛錬に育むことにも、当然何の反論もないです。反論がないどころか、それが私の仕事です。

 

でも、私たちS&C指導者の後ろには科学があります。

我々S&C指導者は、科学を咀嚼し、効率よくその効果を選手たちに提供できるように形成してから、指導に当たります。

そこに強いプライドも持っています。

 

私の強い信条では、選手たちの時間や体力を無駄に消費するのは罪ですから。

 

 

昨今の高校野球問題で見かけるおじさんたちの背景には、どうしても私が祭りでお世話になっているおじさんたちの顔がチラチラします。

問題は、祭りで顔を合わせるおじさんたちのことは愛し尊敬もできるのですが、高校野球問題で出てくるおじさんたちには、憎しみにも似た感情が生まれます。

彼らは私の信条に反する事を日常的に行っている、もしくは行ってきた人たちだからです。

そして今後もそれを助長しようとしています。

 

 

科学は宗教ではない。

その真意がわからないってのは、おじさん、粋じゃないよ…

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