2020.1.27

The Mamba Mentality Stays…

Kobe Bryantが事故で亡くなったというニュースが今朝届き、私は愕然としました。

あのNBAのスーパースターに降りかかった悲劇は、米国のみならず、世界中の人たちに同じ感情を与えていることでしょう。

 

 

実は私は多くの場面で「コービーは嫌い」と発してきました。
ある出来事がきっかけで、私は彼に対して「Dislike」の域を出た「Hate」という感情を持っていたのです。
まずそこら辺からこのブログを書いていくことにします。

 

1996年3月19日、18歳の私は初めてNBAの試合を観に行きました。Los Angeles LakersのホームコートGreat Western Forumで行われたSeattle Supersonics戦でした。その年はMagic Johnsonが32試合だけ復帰した年で、その時点ですでにNBAの伝説となっていた名選手のプレーを私は幸運にもこの目で見ることができたのです。
彼とNY Knicksの故Anthony Masonのプレースタイルから”Point Forward”(本来はPower Forwardではありつつもハンドリングのうまさからバックコートからフロントコートにボールを運び、プレーコールまでを行ってしまうポジション)という言葉が流行った年で、実際に、その試合でもMagicがコートにいるときは彼がボール運びをしていました。私は初めてのNBA観戦という事もあり、The Forumに足を踏み入れた直後から、夢見心地でそこで起こるすべての瞬間を楽しんでいました。
ただ、その試合で最も活躍したのは、あの伝説のMagicでも、1992年のNBA Dunk Contestの勝者でその年のLakersのエースCedric Ceballosでもなく、プロ入り2年目の若きEddie Jonesでした。その後彼はNBAのSteal王にもなるのですが、その試合でも26得点3スティールと、攻守にわたり大活躍をします。彼はシュート力もディフェンス力もリーグ屈指の選手にその後成長していくのですが、その試合の彼のプレーで何よりすごかったのは、ベースラインのカットインからの豪快なダンクでした。あの世界トップレベルの選手たちでさえ止められないスピードと跳躍力は、18歳の私の目と心をごっそり奪い、以降、Eddieは私のアイドルになります。そして、Chicago BullsとMicheal Jordanの2度目の王朝期に差し掛かる時期にあってなお(その年のFinalはBulls vs Sonicsでした)、必然的に私にとってLakersはより一層特別なチームになります。

そのLakersはその年のドラフトで3名の1巡指名選手を獲得します。Derek Fisher、Travis KnightそしてKobe Bryantです。とりわけ高校からリーグに入ってきたフレッシュで才能溢れるKobeは注目を集めました。

また1996-1997シーズンのLakersには大きな変革がありました。フリーエージェントになっていたあのShaquille O’Nealを獲得したのです。彼を中心にチームを作り上げる構想を立て、比較的若いチームはどんどんと力をつけていきます。
ちなみにShaq加入2年目である1997年のLakersからは4名の選手がその年のNBA All Star Gameに選出されています。スターターとしてShaqとKobe、そしてリザーブにEddieとNick Van Exelです。ここからもわかるように、Lakersのリーグの中での人気はうなぎのぼりで、しかもその中心人物はShaqと、私の大好きなEddie、ではなくKobeだったのです・・・

そんなLakersは1998-1999シーズン後にEddieをトレードに出します。当然ながら、それはチームがEddieではなくKobeを選んだ結果です。ShaqとKobeのLakersはその後3度、そしてShaqなきLakersがKobeを中心として2度リーグ優勝をしているので、Lakersは確実に優良な決断を下したのですが、私のアイドルEddieを他チームに追いやったKobeに対して、私がネガティブな感情を持つのは非常に簡単でした。

Kobeがルーキーの年から、チームは彼を育てるために多くの機会でボールを与え、彼はそれに応えるように懸命にゴールに向い、チームのために努めていました。しかし時にそれはチームのテンポを崩すようなタイミングでのシュートだったり、お粗末なターンオーバーによる失点そして敗北につながったりと、私のHate Kobeに拍車をかけるプロセスも踏むことになります。

その後、ご存知の通りKobeは着実にスーパースターになっていきます。先述した通り、Shaqがチームを去った後もしっかりとチームをけん引し、2度のNBAチャンピオンにもなります。つまり、彼はリーグを代表する、むしろリーグを彩った歴代選手たちの中においても、特別な存在にまで成長しました。

ただ、私は”Hate Kobe”だったので、それらすべての功績を正面から受け止めることを拒んでいました。彼が素晴らしい選手であることは十二分に承知でしたが、とにかく、Hate Kobeだったんです。

 

そんな彼に対して、「なかなかやるじゃねぇか…」という感情を持ったことがあります。2012年のロンドンオリンピックにて素晴らしいリーダーシップを発揮した時です。
その時の米国代表男子バスケットボールチームは、LeBronやKevin Durantなど、今もリーグで大活躍している若きスター選手たちにより形成されていました。その中で最年長だったKobeは、控えに回ることも辞さず、彼の代名詞である得点よりもディフェンスに特化したプレーを魅せ、素晴らしい彼らの兄貴分としてチームの金メダル獲得に貢献しました。

それまで「年下のわがままっ子」というイメージが強かったあのKobeに成熟味を発見した初めての機会でした。
このロンドンオリンピックでの振る舞いは、彼がバスケットボールというゲームをよく理解している証明となったのです。
まぁ、世界はすでに彼がバスケットボールというゲームを支配した存在であることは熟知していたのですが、彼にネガティブな感情を持っていた私にすら、それを知らしめたのです。

 

Kobeは、高校卒業後すぐにリーグ入りし、同時に、チームだけでなくリーグを担う存在になるべく、多くの責務を負わされた選手でした。その責務はKobeだけでなく、世に知られているよりも多くの選手たちに振り分けられています。しかしながら、その期待と重圧に十分に応え、その通りの選手になれたのは、ほんの一握りの選手たちだけです。そしてその選手たちの中でも、リーグの一時代を担う存在として輝くのはごく一部の真のスーパースターだけです。

Kobeはリーグ入り直後の数年に、打つべきではないショットをミスし、ドライブするべきではない時に無理やりペイントエリア内の大男たちの中に突入し、頼もしいShaqにすらパスもせずゴールに向かい、メディアやファンたちから強い批判を受けました。

私もその機会を逃さずに懸命に批判しました。

しかし、彼はそれら批判を糧に成長し、我々Hatersでさえ認めざるを得ないまでの歴史的なスーパースターになりました。

 

 

「矢面に立つ」

それを許された彼はその重圧に押しつぶされず、人格や人生までも潰されるような批判もその後の成功に着実につなげ、当然ながらそれを成すために壮絶な努力もし、あのKobe Bryantはリーグに君臨しました。

先にも述べた通り、重要な役を担う機会を与えられるだけの才能があり、そこに挑んだ選手たちはKobeやJordanやLeBron以外にも沢山いました。しかしながら重圧や怪我に負け、夢に描いたようなプロバスケットボール選手としての名声を得ることができなかった選手たちは多くいます。

その中にあってKobeは

「お前じゃチームを勝利に導けない」
「お前じゃリーグを牽引できない」

と、最初のリーグ三連覇の後ですら言われ続けました。
もしかしたら、最もHatersの多かったスーパースターだったのかもしれません。

それでもそういった批判を全て覆し、彼がリーグに入ってきた時に課された期待以上の実績を残したのです。

期待と批判の矢面に立ち、そこで自らを鼓舞して果てしない努力を繰り返し、リーグを鮮やかに生き抜いた真のスーパースターです。

 

彼の妥協なき勝利のための「強さ」は、彼のニックネーム「Black Mamba」から

“The Mamba Mentality”

と呼ばれました。

 

 

 

You’ve left the court with “Mamba Out”, but you didn’t have to go that far. Too far…

 

We love you, Kobe.

I’ve always loved you, Kobe.

And we’re gonna miss you…

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